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ヘンリ・マチス
Henri Matisse(1869-1954)
 フランスの画家。最初、法律を修め、代訴人書記となる。1889−90年はじめてデッサン、絵画
 に興味を覚える。1892年画家となるためパリに出て、95年エコール・デ・ボーザールのギュス
 ターヴ・モローの教室に入り、ルオーらと知り合う。1896年サロンに初出品、国家買い上げとな
 る。1898年に師モローが死ぬと、翌年アカデミズムから離れ、パリのアカデミー・カリエールに
 通い、ドランらと知り合い、その紹介でヴラマンクとも知り合う。その前後の一時期新印象主義に
 近づき、1904年ヴォラールの画廊で最初の個展。1905年の夏をドランとコリウールで過ごし、
 ともにフォービズムに達する(『コリウールの窓』1905、ニューヨーク、ジョン・ヘイ・ホイットニー
 蔵など)。翌年ガートルード・スタイン宅でピカソと出会う。この年アルジェリア、翌年イタリアに旅
 行。1908年、Note d'un peintre (二見史郎訳『画家のノート』に収録)を発表。この年、モスク
 ワの大コレクター、シチューキンが彼の『食卓の赤のハーモニー』(エルミタージュ美術館)等を買
 い、1911年にはその招きでモスクワを訪れる。1909年イッシィ=レ=ムレノへ転居。1911、
 12年の二度モロッコへ旅行。この時代からさまざまな空間表現の実験、装飾的要素の大胆な使
 用を試みる。1916年から冬をニース、夏をパリで過ごすことが多くなり、【オダリスク】の主題を
 好んでとりあげる。1933年アメリカ、メリオンのバーンズ邸の壁画『ダンス』を制作(バーンズ財
 団美術館)、以後、平面化と単純化の試み(『ばら色の裸婦』1935、ボルティモア美術館など)を
 経て、40年代の大室内の連作に達する(『赤い大室内』1948、パリ、国立近代美術館など)。
 1941年代手術を受け、1943−48年南フランスのヴァンスに定住、切り紙絵に専心し、『ジャ
 ズ』として出版(1947)。1948−51年、建築のプラン、壁画、ステンドグラスなどすべて自身の
 構想になるヴァンスの礼拝堂を完成した。早くから彫刻、版画も手掛けたほか、マラルメ詩集の
 挿絵(1931)以後、グラフィックな仕事も多い。最も純粋な意味における色彩画家で、心憎いま
 でのデッサン力の持ち主である。故郷のカトー及びニースにマチス美術館がある。ニース郊外で
 没。